1995年
『窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている』(実業之日本社)
1990年から1995年までの短編を集めたぶ厚い本だ。テレビで地下鉄サリン事件の推移を眺めながら、ぼくはこの本作りをすすめなければならなかった。表題の『窓の外を眺めながら、部屋のなかに座っている。』は、そんな気分の現れである。個々の作品について簡単に触れておこう。
「君のために、おれはもう一度ペンを持つよ」は、ボブ・ディランを聴く気分で書いた。本書の中で自分ではいちばん気に入っている小説で、だから最初に持ってきた。ほんとうに、もう一度ペンを持つ気分になれればいいのだが。
「ヘミングウェイと、とても暖かなセダン」は、過去のちょっとした体験がベースになっている。男同士の友情は、ぼくの中では女との恋愛より高い場所に位置しているのだ。 「二十一世紀への手紙」では宗教の問題に触れているが、これを書いた時にはもちろん今日の状況は想像もできなかった。
「暗く深い脱出不可能な穴」は、昨年出版した長編ノンフィクション・ノヴェル「安息の地」で身につけた方法論を短編に応用した作品である。取材の過程で、多くの人々のお世話になった。
「キャッチボール」は、ぼくの父親像への偏愛の傾向が現れているように思う。父と娘の理想的な関係を描いてみたかった。
「野ウサギ」では、無意識のうちに性の不可能性について書きたかったのかもしれない。この作品に限らず、ヘテロ・セクシュアルな男であるぼくがレズビアンの関係に心惹かれるのは不思議なことだと思う。
「イギリス海岸」は花巻へ宮沢賢治の足跡を辿る旅をして、実際にイギリス海岸も訪れ、帰京してしばらくしてから執筆した。書いている時には小説による賢治論にしようと意気込んでいたのだが、読み返してみると、性器が小説の主人公の役割を果たすようなその品のなさぶりに我ながら唖然とさせられた。この作品中<「銀河鉄道の夜」のカムパネルラとジョバンニは天国で降りない。そこが大切なところなのだ>という考え方が出てくる。これは、旅の途中で寄らせて頂き、長時間に渡ってお話を聞かせて下さった賢治の実弟、宮沢清六氏にご教示頂いたものであることを付記しておかなければならない。帰りしな、清六氏はご自分が賢治の詩の一節を筆でお書きになった色紙を下さり、ぼくはそれを額装して仕事部屋に飾り、時折音読している。
「スピカと月」「アーリー・タックルと食後の熱い紅茶」「ドライヴと愛の哲学に関する若干の考察」は、何人かの作家によるアンソロジーのためにそれぞれ<恋愛><別れ><情事>という課題を与えられて書いた短編である。アンソロジーに置き去りのままでは淋しいと三本の作品が言うので、本書に収録してやることにした。
「氷の上を歩いてごらん」「月がのぼり太陽は沈む」「虹の国」「ルビー・チューズデイ」は、ポルノグラフィを書くよう依頼され、それに応じたもの。だが単なるポルノグラフィを書く気力がなかったので、編集部と相談の上、ノンフィクション・ノヴェルの形式を取り入れることにした。実際に四人の女性と一人の男性に話を聞き取材した上で書いた。『PENTHOUSE』という媒体の性格上、雑誌掲載時には裸のグラビアに添えられる小説といった趣向であり、そのうち何本かは話をしてくれた女性自身がグラビアも飾ってくれた。当初はこれだけでムックを作ろうかと思ったりしていたのだが、前述したようにぼく自身の気分の変化があり、加筆訂正を入れ本書に収録することにした。この四本の短編にも性の不可能性というニュアンスが色濃く出ているが、これはぼくの側の意図的なものではなく、むしろモデルになってくれた人達が偶然そうした体験を共有していたということにすぎない。だからこれはもはや、時代の普遍的な傾向と言うべきだろうと思う。
「夜のガウン」というタイトルは、ミック・ジャガーのソロ・アルバムに収録されていたナンバーの歌詞から借用した。
「あんたはカッコよく歩いたかい」は一九九二年に書かれた作品で、輪廻転生がモティーフである。ここで描かれたような神秘的な体験をぼく自身、翌年することになった。
『欲望』(ベネッセ)
犯罪小説である。主人公は、ポルシェを愛するイラストレーターだ。
『多重人格の女神』(ぶんか社)
白石久美の裸体をカメラマンの大澤則昭が撮影し、ぼくがそれに散文詩を寄せた。
『快楽のアルファロメオ』(中央公論社)
アルファロメオという自動車へのオマージュである。この本を出版したのが縁で、アルファロメオ社が提供するFM番組のDJをやるようになった。
『ヒーリング・ハイ/オーラ体験と精神世界』(早川書房)
ぼく自身が自分のオーラを見るという特異な体験をし、それについて書いたエッセイ集。リンクを見てください。
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